理想の上司〜人事異動の時期と共に〜

タイムラインで理想の上司みたいなことが書かれていたのを見て。ふと文を綴りたくなった。

 

世間的にも4月は大きな人事異動の時期だし、ちょうどいいかなと思います。

 

理想の上司にはもう出会っている

皆さんにとっての理想の上司は誰ですか?

芸能人や漫画のキャラクターという人も多いのではないでしょうか?

 

僕にとっての理想の上司は、今まで出会った人の中に2人もいます。

1人は大学の部活の時の先輩で、もう1人は前職で営業をしていた時の上司です。

実際に関わった人の中から2人も理想の上司がいるというのは、幸せなことだと思います。

それだけ人に恵まれているということですから。

 

なぜ彼らが理想の上司なのか

僕の理想の上司はどういう人かというと、非常に熱量が高いです。成長意欲が高く、理想や目標を高く持っています。

彼らとの会話では、その時には現実的ではない高い目標を、恥ずかしいとも詭弁とも思わず、当たり前のものとして自分自身で思うことができます。

むしろ現実的で達成可能な目標を掲げる方が恥ずかしくなります。

 

熱量が高い人はたくさんいますが、彼らが僕の理想の上司であるのは、ただ熱量が高いだけではないという点に尽きます。

熱量が高い一方で、非常に冷静で、冷徹ですらある部分を持っています。

彼らはその熱量をもってして、部下に対して「俺について来い」とは一切言いません。

自分が期待する部下には面倒を見て高い要求をする一方で、自分が期待しない部下や自分に合わない部下には機械的とも言える関与に留まります。

 

この情熱と冷静のバランスや両立のとれた者こそが、僕にとっての理想の上司なのです。

 

理想の上司だから、彼らのようにはならない

彼らの特徴して、上司でありながら対等でいさせてくれる側面を持っています。

立場が同じということでありません。

上司部下という関係であっても、人それぞれに違った強みがあります。彼らは総合力では上司>部下であったとしても、強みにおいては部下>上司でなる、ということを理解しています。

彼らは僕の強みを探すことに努め、強みを使う機会を積極的に与え、強みの分野では頼ってさえくれます。

彼らは彼らの真似をしろとは言わず、そうやって僕に僕の強みを活かす道を探させてくれます。

 

だから、僕は彼らとはタイプも仕事の仕方もキャリアも違うことばかりで、真似をしようと思いませんでしたし、今でも真似る気はありません。

彼らにはならない。彼らを尊敬するからこそ、真似をせず後を追わず、自分自身が発揮できる価値で彼らを助ける道を行かなければならないのです。

 

理想の上司とは、自分の価値観を映す鏡

理想の上司とは、自分と価値観を同じくする者や、自分が大切にすることを持っている者のことです。

万人にとっての理想の上司などいません。

人と人との出会いは偶然で気まぐれなので、必ずしも全ての人が理想の上司に会えるわけではありませんが、待っていたら永遠にその時は来ません。

 

まずは自分にとって大事なことは何かというのを、自分の中で言語化し体現しなければなりません。

もし僕が「高い目標意識を持ちつつも勢いだけでは生きない」という雰囲気を出していなかったら、彼らは僕を試すどころか気にも留めなかったはずです。

 

理想の上司に出会うということは、自分が誰かの理想の部下になることでもあります。自分自身がどういう人間でありたいかということを意識しなければ、永遠にいい出会いは訪れない。

 

理想の上司になる

そしてそろそろ僕も上司になる番だと思います。自分がいい上司になるためには、自分という人間が何を大事にするかを言語化して、そして価値観を同じくする部下を見逃してはいけないということです。

 

この点において、やはり彼らを理想の上司とする僕の考えは、自分自身のやり方を部下に押し付けてはいけないが、部下のタイプに合わせにいってもいけないという、絶妙なバランスを常に意識しなければいけないのである。

 

「さらば、全てのエヴァンゲリオン。」というメッセージ

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シン・エヴァンゲリオン劇場版:||、見ました。

僕は考察厨ではないし、内容について熱く語りたいという願望もないので、この作品のメッセージとして感じたことをただ綴ります。

考察もしないし内容を語らないけど、ネタバレがないとは言えないので、ネタバレされたくない人は映画を見てからにしてほしい。

 

さらば、全てのエヴァンゲリオン

「さらば、全てのエヴァンゲリオン。」というのは、本作のキャッチコピーである。

劇中では、シンジ君が「さようなら、全てのエヴァンゲリオン」という言葉を発している。

そして、これがシンプルにそのまま監督からのメッセージなんだろうなと感じた。

 

劇中では、「さようなら、全てのエヴァンゲリオン」=エヴァンゲリオンという存在のいない世界へいくよ、という意味での別れの言葉だった。

 

メタの世界では、「さようなら、全てのエヴァンゲリオン」=エヴァンゲリオンという作品に対する別れの言葉なんだろう。

 

つまり、「エヴァこれで完全に終わるよ」、「君たち(視聴者)もいつまでもエヴァに囚われるの終わりね」というメッセージなんだと思う。

 

さらば、「全ての」エヴァンゲリオン

キャッチコピーに「全ての」という言葉が入っていることも、僕ら視聴者がエヴァという作品から離れるための意味なんだと思う。

もし新劇場版だけが綺麗に完結しただけだったら、アニメや旧劇で囚われた人は囚われたままになる可能性もある。

だけどそうじゃなくて、とにかくエヴァって作品、シリーズをひっくるめて「全ての」エヴァを過去のものにしなさいよと。

 

それを感じさせるのが、劇中で明らかにテレビシリーズや旧劇と思われるシーンが出てきて、そしてそこに新たな言葉が添えられたことだと。

キャラクターにも僕ら視聴者にもずっと与えられていたモヤモヤしていたものを、解消していった。

 

もちろん時間がないから全部が全部は解消できないんだけど、でも「これでキャラクター達はかなり救われたでしょ?だからもういいっこなしね」っていうメッセージなんだと思う。

 

お友達のアスカ好きの人も、惣流アスカラングレーもオタクも救われたって感想を言ってたのを見た時に、改めてメッセージの意図を感じた。

 

大人にならなきゃね

そう考えると、シン劇というのは、非モテオタクへの熱いメッセージも含んでいて。

シンジ君は大人になったよ、君たちも早く大人になりなさいよと。

いつまでも一人身でエヴァエヴァななんて言ってないで。

妻を持ち、子をなし、NEON GENESIS新しい世代につないでいきなさいよって。

 そんなメッセージを感じたよ。

それを象徴するかのように、次世代を担う、Q以前のメインメンバーの子供たちもたくさん出てきたし。

 

正直シン劇を見た時。

僕は泣くでもなく、考察にわくわくするでもなく。

 ただただ綺麗な終わりだなって感じた。

エヴァっていう作品においてこんなに綺麗に終わることなんて、全く想像できなかったから。

拍子抜けしてしまったといってもいいくらいだった。

 

 でもそう感じられたのは、監督からのメッセージを受け取れたからだと思っている。

子供心を忘れないということと、大人になるということは、実は相反する矛盾することではない。

自分の責任すら自分で負えない人間が子供であり、他人の責任すら負える者が大人なんだということだ。

そんなことを、僕はゲンドウやミサトさんの背中に思った。

 

さようなら、エヴァンゲリオン

僕らがこれからすべきことは、考察でも感動でもなく、大人になることだと思った。

だから僕は大人を目指すよ。

エヴァンゲリオンという作品を胸の内にしまって。

エヴァンゲリオンのない世界を進んでいく。

 

 

客観視は大事だけど相対視も大事だよねということに気づいた

こう見えて真面目なので、何かをする時に勉強したりするんですよ。

とりあえずやってみるけど、それと並行して結構調べたりします。

ホントに何も考えずに自分の直感だけで何かをするということはほとんどないです。

そんな中で、教科書的なものとか、教えみたいなものを見る時には、自分を客観的に見るだけじゃなく相対的に見ることも非常に大事だということを最近学びましたので、それについて話していきます。

 

教科書的なもの、教えみたいなものとは何か

まず最初に教科書的なもの、教えてみたいなものとは何かについて説明します。

敢えて「的なもの」という言葉をつけていますが、今の世の中には、教科書と名乗ってはないけれど教材的な役割を果たしているものがたくさんあります。

わかりやすくて最近の流行りだと、筋トレ動画とかが該当します。こういう筋トレをしたらこういう筋肉がつきますよというあれです。

マインドとか生き方について解説してる動画も該当しますね。こういうことすると幸せになりますよみたいな。

つまり何も本だけじゃなくて、YouTubeだろうと、ブログだろうと、知識やアドバイスを伝えるものも、教科書的なもの、教えみたいなものに当てはまります。

 

客観視の重要性

客観視の重要性は結構みんな認識あると思うんですよね。

客観視ができないと、自己評価と他己評価の差が大きくなりすぎて、本来すべきことをせずに、すべきでないことをしてしまうということが起こります。

また、別に自分をことを言われてるわけでもないのに、勝手に感情的になって文句をまき散らす人たちも主観が強すぎますね。メディアに踊らされていちいちクレームつけてる人たちがそれです。

だから一歩引いて、他人のことのように自分を見たり、数字や事実で自己を認識するのが大事だということです。

 

相対視の重要性

では相対視が何かというと、世の中とか平均値と比べて自分がどういうポジションにいるのかを見るということです。

ただ客観的に見るだけでなく、自分が比べるべき対象の中で、どういうポジションに位置しているかを踏まえて判断するのが重要です。

 

例えば、今の世の中だと「痩せましょう」というアドバイスはどこに行っても見ると思いますが、「太りましょう」というアドバイスを見ることはまずないと思います。

でもそれは世の中には肥満気味の人が多いからそういうアドバイスばかりになるわけで、痩せる必要がない人も中にはいます。

実際に、僕はずっと有酸素運動系のスポーツをバリバリやってきたので、僕も仲間も体脂肪率は10%代前半が普通で、20%を超えたら完全にデブという感覚で生きてきてきました。

ただ本来体脂肪率20%は世の中全体の男性で見た時には標準です。

だからすでに体脂肪率10%代前半の人間は痩せる必要はないということになります。

 

世の中にはやばいやつがたくさんいて、たいていの教科書はそういう人に向けたものになっているから、実践するとむしろ失敗する

前述の体脂肪率の話は数字なので客観視しやすくわかりやすい例でしたが、同じことは他のあらゆること、心理学とか考え方とかコミュニケーションの仕方とかにも当てはまります。

そして数字で表されないものほど客観視が難しく、客観視が苦手な人ほど、やばい人が多いのが実態です。

そう理解すると、世の中の考え方とかコミュニケーションの教科書的なものや教えというのは、ほとんどが極端にやばい人向けになっていることに気づきます。

やばい人向けの方がインパクトがあるし、キャッチーだし、効果があるのがわかりやすいんですよね。だからやばい人向けのものばかりになります。

結果、自分がやばい人でない場合、教えをそのまま守ってしまうと、かえって失敗してしまう可能性があります。

 

例えば会話術だと、傾聴力だとか共感力だとかがよく言われてますけど、普通の人がやったらやりすぎてしまって、かえって消極的だと判断されてしまうので、やってはだめなんです。

世の中には、マジで横柄で、他人の言うことなんか絶対に聞かず、自分を王様だと思ってるような人がいます。僕の知ってる人にもそういう人はいます。傾聴力だとか共感力だとかは、本来このようなやばい人へのアドバイスです。

普通の人がこれを信じてマネすると、受けに入ってしまって相手が無理しないといけなくなるので、マイナスになります。

 

自分が想定されている対象者と比較してどのポジションにいるのか

以上のように、教科書的なものとか教えみたいなものを言ってる人が、どういう人を対象と考えていて、その対象と比較して自分はどのポジションにいるのか、それを把握した上で教えを捉えるのが死ぬほど大事です。

一人一人に適切なアドバイスをするのは、相手をことを深く理解していないとできないため、つい一般論のアドバイスをしてしまう人が実際には多いです。

なので、誰かがしているアドバイスは、一般論なのか、それとも自分に最適だと思ってしているのかを見極める必要があります。

そういう時に、世の中の平均と自分がどれだけ一致しているのか、どれだけずれているのかを理解しておけば、一般論なのか自分へ向けたものかを理解できるようになります。

 

このように考えていくと、自分の場合は、よくYouTubeとかに上がっている一般論の教えみたいなものはほとんどが当てはまらないので、マネしたらダメなんだということに、最近気づきました。

 

 

 

頭がいいを言語化する

よく言ってることだと思うんですけど、自分が女性を好きになる時に、外見がいいかどうかよりも頭がいいかどうかの方が重要度高いです。
 
男性に人気が高い気がするふわふわ系でちょっと天然みたいな感じの子が、自分は一番ダメなんです。多分イラっとする。天然で可愛ければ可愛いほどイラっとすると思う。可愛ければなんでも許されるが逆なんです。
 
僕が思う頭がいいってどういうことかというと、勉強ができるかどうかではないです。
頭がいい=勉強ができるとしか変換できない人も、僕の基準では頭が悪い人に入ります。 
僕にとっての頭がいいことの考え方自体は、男女関係ないです。
それを今回は言語します。
 
 

最近頭がいいなと思う人

では頭がいいとはどういうことか、具体例でいうと、最近頭がいいなと思うのがダルビッシュ有プロ野球選手)です。
この人は高卒だし、野球しかしてきてないから、学歴や勉強とは一番遠い世界で生きてきてるわけだけど、頭はすごくいいと思います。
ここ数年でTwitterでよく一般の人と絡むようになったので、元々いいのではなく、良くなってきたが近いと思います。
 
 

頭がいい要素

それを具体的に要素分解すると、
  • 情報をインプットする力
  • 情報を解釈する力
  • 情報をアウトプットする力
の3つの要素組み合わせ(総合力)だと考えています。
 
一つずつ説明していきます。
 
 

1.情報をインプットする力

まず情報をインプットする力ですが、これは量でも質でもなくて、正しくて適切な情報を得る能力です。
わかりやすく言うと、テレビでこう言ってたからこれが正しいんだと思いこまない能力です。騙されない能力とも言えます。
その程度がどれだけ高いかという能力で、この能力が低い人は、詐欺に騙されます。
 
僕もマルチ商法かつ詐欺の話に触れたことがあるんですけど、いくらなんでもあり得ないだろうということを、たくさんの人が信じていました。
オチとしては話題になった桜の会で安倍総理と一緒に撮った写真をチラつかせただけなんですが、その写真だけで勝手に権威性を信じて、発言内容まで丸々信じてしまっていました。
 
権威性だけではなく納得のできる根拠を収集したり、複数の情報リソースから情報を組み合わせて判断できることが、情報をインプットする力です。
情報を入れるだけじゃなくて、判断する所まで含めてインプット力だと捉えています。
メンターにするのはいいけど、信者になってはいけないということだと思います。
 
 

2.情報を解釈する力

2つ目が情報を解釈する力です。
これだけ日本語でダサいので横文字に統一したかったのですが、ちょうどいい言葉が思いつかなかったのでこれだけ日本語にしました。
解釈する力は何かというと、理解力とは違います。それはどちらかというとインプット力に入ります。
解釈力をさらに2つに分解すると、①自分に活用できる形に変換する力、②発信者のポジションを理解して情報を汲み取る力、の2点だと考えています。
①の自分に活用できる形に変換する能力というは、ことわざで言うと一を聞いて十を知るということと同じようなものです。得た情報をただその形で理解するだけじゃなくて、他の情報とつなぎ合わせていって理解を深めたり、他のことに応用できるくらいまで理解を深めるという力です。
②の発信者のポジションを理解して情報を汲み取る能力というは、あんまり聞きなれないと思います。
情報の発信は、ほぼ必ず何かしらの立場や価値観から発信していて、全くの中立みたいなものってほぼありません。
わかりやすいのは例えばネガキャンです。ネガキャンしたい人ってネガティブな情報しか出さないし、9割の人にはネガティブじゃなくても、1割の人にネガティブだったら堂々とネガティブ情報として出します。
僕だって、社員と話す時は社員の味方の立場、経営層と話すときは経営の立場で話ますよ。同じ人間でも立場が変われば発信する情報も変わります。それを理解した上で相手の趣旨は何かを汲み取るというのは大事な能力です。
これができない人が、メディアとかの発言に揚げ足取りみたいに感情的に突っかかっちゃうわけです。最近だとお母さん食堂の炎上の件になりますかね。
 
 

3.情報をアウトプットする力

最後が情報をアウトプットする力。
これも文字通りです。他人が理解しやすい形で説明ができるかどうかという能力です。
まずは言語化する能力が必要で、その後にロジカルシンキングの能力です。
それと同時に自分のステークホルダーの2(情報を解釈する力)のレベルを把握した上でアウトプットする能力も含まれます。
僕も言語化はかなり苦手でしたが、去年ここではない所で、かなり文章を書き続けてきたので、言語化の能力はかなり高まったと思っています。
 
 
 

頭のよさと学力には相関性はある

もちろん学力との相関性はあると思います。
特にアウトプット寄りになるほど学力との相関は高いと思います。
でもあくまで相関性でしかないので、イコールではないです。
 
 

考えすぎていい

よく、「考えすぎだよ」っていう人がいると思うんですが、そのままつられて考えるのをやめたらだめです。
「考えすぎだよ」っていう人は、「お前面倒くさいから、思考停止して」というポジションがほとんどです。相手のためを思って「考えすぎ」なんていう人はほとんどいません。思考停止したらバカになるしかなくなるので、絶対やってはだめです。
考えすぎといわれたり、自分でもそう思う人は、言語化ができないことか、ポジションが把握しきれないことが多いです。これは訓練を重ねて鍛えるしかないので、考え続けた方がいいです。
思考停止すると1のインプット能力すら弱くなるので絶対だめです。
 
 

頭がいい人は回転速度が速いだけ

本当に頭のいい人って、考えてないように見えてものすごく考えてます。
頭の回転が速すぎてインプットからアウトプットまでの速度が速いから、考えてないように見えるだけです。
実態はものすごく考えていて、ちょっとしとこととか、自分が考えてもなかったことにまで思考が及んでます。回転力が速いだけなんですよ。
 
 

 自分の意見を持ってほしい

少なくともインプット力がない人とか、自分の考えが持てない人は、どうしても好きになれません。
あってるかあってないかじゃないからね。正解を当てる能力は学力だけと頭の良し悪いしだけど、頭の良さとは別です。いくら正解を当てる能力があっても、自分の意見を自分の言葉でもてない人は面白くないし、こちらが意見を言うのをやめなくてはいけなくなってしまいます。
なんでも言うとおりになる相手よりも、議論が弾む相手の方が絶対面白いですよ。少なくとも僕はそう思います。
 だからみんな、正解不正解を恐れず自分の意見を持ちましょう。否定されたり、批判されたり、あら捜しされることはあるけど、それも自分が成長する糧になるので、自分の意見を持ちましょう。
 
 
 
 
 

転職してから4年が経ちました

ちょうど4年前、今の会社に転職しました。
前の会社と密度が違い過ぎて、まだ4年しか経ってのないのかよ、という気持ちです。
 
 
前の会社がくっそ暇で、ちょっと激務なくらいがいいなーと思っていたのですが、それが叶っているのでその点はよかったです。
前の会社の年間残業時間が、月間の残業時間になりました(これでもだいたい36守れてるので、前の会社の残業の少なさが尋常じゃないです)。
普通は激務すぎるから転職したい人の方が多いと思うので、くっそ稀有な例ですね。ホワイトな会社に転職したい人には前の会社をお勧めします。
 

失ったものと得たもの

前の会社にいたほうが、今より年収は高くなってたと思うし、大手の上場だから社格とかいうやつも高かっただろうし、潰れるリスクも少ないし、時間にゆとりもあったと思います。婚活するなら転職しない方が有利だったろうな。
でも、そういう「隣の芝生は青く見える」幸せにとらわれずに、自分が幸せと思うことは何だろうかとか、自分が楽しくてやりがいが持てる人生って何だろうかを、自分の価値観で考えることがでました。
また、恵まれた環境から得られる中途半端はおぼっちゃま思考がなくなり、自分の芯を持ちながらも、柔軟性や優しさを兼ね備えることができたと思います。
 
 

やっと堂々と間違いではなかったと言えるようになれた

転職の長期的で本質的な理由は、将来、自分が50歳になった時のリスクを下げることでした。(その意味合いについては本稿とは逸れる上長くなるので割愛します)
転職以来、年々成長はしていたけれど、SNSでキラキラしていたりネット上で名前が飛び交う人たちのような、素晴らしい頭脳や実績や成長曲線は、とても自分には持てません。
それでもこの半年くらいで、やっと、どこに行ってもそれなりには役に立てるし、成果を出す方法が身についてきたかなと、少し自信を持てるようになりました。
4年経って、やっと転職した本来の目的の第一段階は超えたのかな、誰に対しても間違いではなかったと、堂々と言えるようになれたかなと思います。
凡人の道のりは長いですね。
 
 

己を変えるのは機会と経験

自分はこんなもんかなって、勝手に限界を考えてしまった時も何度もありましたが、そんなことに悩む前に、自分のやれることややるべきことを、なんでもいいからやり続けることで、結果的に成長も実績もついてくるものだと、改めて学びました。だから常に忙しくしていたいし、何かしていたい性格なんだってことも思い出しました。
 
悩むこと、未来について考えることは大切で、そんなことすらない人間は、伸びしろも成長もないのだけれど、その先にどれだけ挑戦と失敗を繰り返して経験値をためていけるかが、伸びしろと成長の大きさを決めると思います。
悩める人たちに、一緒にこれからも自分の可能性を信じて、失敗を繰り返していきましょうと伝えたいです。
 
 

たくさんの人たちへの感謝を

4年前、自分の生い立ちも仕事も本名さえも知らない、喫茶店で会うだけの関係だった人たちが、自分の弱音や不安を聞いてくれて、背中を押してくれました。
まだまだ日本では、会社や親族ほど転職の話をしにくく、彼ら彼女らが話を聞いてくれなければ、最後まで走り切れず、今の道を選べなかったと思います。
今でこそ接点がほとんどなくなってしまいましたが、こうして転職してよかったと思えるは彼ら彼女らのた人たちに出会えたおかげでもあります。
それに対しては感謝の念が尽きません。
 
 
ずっと記念日なんてどうでもいいと思って生きてきて、自分の誕生日すらどうでもいいと思って生きてきました。だから転職した日も、特に特別視するつもりはなかったのですが、今の自分があるのは、もちろん今の会社でいろいろ与えてくれる人の影響も大きいけれど、その決断の背中を押してくれた人たちや、その決断を尊重してくれて今なお仲良くしてくる前の会社の知人友人たちのおかげだなと思うと、記念日を大切にしようという気持ちが芽生えました。
 
今もまだ「自分のための記念日」は祝う気にもなれないのですが、「他人や他人への感謝を忘れないための記念日」と思うと、大切にしていきたい日だなと思うことができます。
 
 

これからもがんばります

他人は、自分が思っている以上に、自分のことを思ってくれていて、優しくしてくれていると思います。
その期待に応えるためにも、これからもまだまだ自分の限界を作らず、チャレンジしていきます。
また、せっかくのこの機会に、久しぶりに挨拶だけでもできそうな人にはしていこうと思います。
そして僕自身も他人に対して、期待や機会を与えることを、意識していきたいと思います。
 
また1年後、レベルアップしたブログが書けるよう頑張っていきますので、今後ともよろしくお願いいたします。

これから先どう尖っていくかを考えている。答えはまだない。

皆さんこんばんは。
今日は尖り方についてしゃべっていきたいと思います。

 

尖っている=ユニーク

尖ると言う言葉には色々な意味がありますが、今日は個性的であることという意味で扱っていきます。
結論としては、多様化が進んでいる今日においては、非常に具体的でピンポイント個性や長所のようなものを持っておくと良い。もはや個性と言うレベルではなくて、尖っていると言えるくらいユニークなレベルであることが望ましい、ということです。

 

こんな時に尖りたくなった

今回尖るということについて考えた背景が2つあります。1つはYouTubeと言う世界を見ていて気づいたことがあったから、もう一つは、人生の中でこれからのキャリアについて考える機会が来たからです。


YouTubeに見た尖ることの大事さ

YouTube見たことがない人はほとんどいないと思います。僕もYouTubeは日々見ています。
最近あるカテゴリーの動画がたくさんトップページに表示されるようになりました。それは心理解説のようなカテゴリなので、誰でもやろうと思えばできてしまいます。そのようなカテゴリーだけあって、同じような内容をいろんな人が投稿しているのに気づきました。

 

広すぎるカテゴリはユニークを維持できない

最初はこの中の1人だけが投稿をしていて、それだけでその人はカテゴリーの中でユニークな存在だったんだと思うんですが、後追いの人がたくさん入ってくることによって、だんだんとユニークさがなくなっていってしまいます。しかし後追いの参入を防ぐ事は非常に難しいので、このカテゴリの中でさらにユニークさを持っていかないと、誰の動画でも同じだなって思われてしまうなと思いました。

 

万人受けを狙わないから生まれるユニークさ

逆に、別のカテゴリーで、既にユニークさを持っている人の動画を知っています。最近友人に教えてもらった絵の添削動画なのですが、上手いとか下手といった技術的な添削ではなく、いかにしてお金になるのかと言うビジネスとしての観点で添削をしている動画です。イラストと言うようなカテゴリーにおいてビジネスの観点と言うのはなかなかユニークな観点だなと思います。万人に心地良い内容ではなく、耳が痛くなる人もいるけれどもだからこそ非常に刺さる人もいる動画になっています。カテゴリの中でさらにターゲットを具体化している、尖っている良い例だなと思いました。

 


これからの自分のキャリア作り

僕は数年前にキャリアについて見直すタイミングを迎え、結果転職をして経験を積んできました。
今また、当時からあった環境の中で経験できることは一通り経験をしたなと言うタイミングを迎えたので、これから先経験することや環境とを新たに構築していく必要があります。

僕の分野と言うのは、超広く言うと会計の分野なのですが、その中にも、たくさんの分野があります。その分野の全てをマスターする事は、およそ人間にできることではありません。

 

なんでも屋はいらなくなる

一昔前のキャリアの考え方であれば、少しずつ広さと深さを増やしていって、丸い形で広げていくと言うのが一般的だったと思います。
しかし、情報得るのが非常に簡単になった現代においては、ただ広くて浅い知識や経験と言うのは、なかなか価値を発揮しにくくなってきています。

 

ラノベのタイトルくらい具体的に尖った方がいい

狭くてもいいので、このことに関してはめちゃくちゃ得意ですというというように、差別化が明確な方が価値を発揮しやすくなってきています。
分野の定義自体を自分で作ってしまえるくらい、尖っていくことができればいいなと、考えています。

 

まとめ

YouTubeの例は、興味の細分化です。
提供する側が無限のレベルで増えてしまったので、受け手が自分の好きなものだけを消費していくようになって、万人受けするものが、選ばれにくくなってしまいました。
合わない人もいるけれど、合う人にはめちゃくちゃ刺さる、そういう尖り方というのが大事だなと思います。


仕事でのキャリア例は、代替可能性です。
誰でもできる誰がやっても一緒と言うのは、パターン化も代替することも簡単なので、その人であると言う価値がなくなっていきます。
この人だからこそできる、この人だからこそやってもらいたい、という尖ったステップアップを目指すのが、これからのキャリアの作り方なんじゃないかなと思います。

 

掛け合わせ組み合わせで尖る

ただし、1つのものだけで尖ろうと思うと、あまりに幅のない人間になってしまうし、求められる深さというのが深くなりできるので、いくつかのものを組み合わせていくことによって、1つの尖ったものを作っていくというのが、当面10年位は最適解なのかなと思っています

 

結論:尖ろう

なので最近は、プライベートでもビジネスでもどうやって自分を尖らせていこうかなあと考えています。
とかあったほうがいいのか丸くなったほうがいいのかと悩んでいる方がいるのであれば、間違いなく尖ったほうがいいよと添えて、締めくくります。

 

 

 

 


 

コロナが飛び回る世界の中で僕らは大切なものを再認識する

ライトノベルみたいなタイトルになりました。

連日のリモートワークによる運動不足を解消するため、河川敷のサイクリングロードで自転車を走らせました。

 

そこで僕の目に映ったのは、たくさんの人達でした。このサイクリングロードは何度も走っていますが、こんなに人がたくさんいるのは見たことがありません。

自転車を走らせるのがこんなにストレスフルだったことは一度もないですし、すれ違うために速度を落とす回数が、過去とは比較になりません。

緊急事態宣言からまだ1週間経たない初の週末、行き場をなくしかつ体を動かすことに飢えた人達がこんなにもいるのかと、驚きがありました。

 

そして、多かったのはジョギングやランニングの人だけではありません。親子連れの数も明らかに多かったです。

こんな風に親子が一緒に遊ぶ、本来は当たり前の光景が、コロナと緊急事態宣言によって戻ってきたというのは、皮肉としか言えません。

今まさに、大半の人達の生活はスローライフになりながら、物理的な他人との交流を制限されてしまった。こういう環境の中で、僕らは改めて人と人とのつながりの大切さを再認識するんじゃないかと思うんです。

 

昨日までの生活ができなくなって、怒ったり不安になったりする人もたくさんいるけれど、そもそも昨日までの生活は、本当にベストで素晴らしいものだったのか、改めて問い直すタイミングなんじゃないかなと思います。

寝てないことが偉いとか、何時間も残業し続けることが偉いとか、そんな風習が気づけば世間を覆ってしまったけれど、それは子供と遊ぶことよりも大切なんだろうか。

愚痴を言いながら飲むお酒は、好きな人達と笑いながら飲むお酒よりも大切なんだろうか。

 

そんなに劇的に変わるなんてことはないから、きっと何ヶ月か先には、昨日までと同じような日常に戻るだろう。

でも何ヶ月もこの日常を経験した人達は、少しずつ変わっていくと思う。

だからね、こんな時だからこそ、他人を思いやる気持ちとか、他人への感謝とか、楽しく生きていくためのことに集中していったら、いい形でこれからの数カ月を乗り越えられるんじゃないかと思うんです。