理想の上司〜人事異動の時期と共に〜
タイムラインで理想の上司みたいなことが書かれていたのを見て。ふと文を綴りたくなった。
世間的にも4月は大きな人事異動の時期だし、ちょうどいいかなと思います。
理想の上司にはもう出会っている
皆さんにとっての理想の上司は誰ですか?
芸能人や漫画のキャラクターという人も多いのではないでしょうか?
僕にとっての理想の上司は、今まで出会った人の中に2人もいます。
1人は大学の部活の時の先輩で、もう1人は前職で営業をしていた時の上司です。
実際に関わった人の中から2人も理想の上司がいるというのは、幸せなことだと思います。
それだけ人に恵まれているということですから。
なぜ彼らが理想の上司なのか
僕の理想の上司はどういう人かというと、非常に熱量が高いです。成長意欲が高く、理想や目標を高く持っています。
彼らとの会話では、その時には現実的ではない高い目標を、恥ずかしいとも詭弁とも思わず、当たり前のものとして自分自身で思うことができます。
むしろ現実的で達成可能な目標を掲げる方が恥ずかしくなります。
熱量が高い人はたくさんいますが、彼らが僕の理想の上司であるのは、ただ熱量が高いだけではないという点に尽きます。
熱量が高い一方で、非常に冷静で、冷徹ですらある部分を持っています。
彼らはその熱量をもってして、部下に対して「俺について来い」とは一切言いません。
自分が期待する部下には面倒を見て高い要求をする一方で、自分が期待しない部下や自分に合わない部下には機械的とも言える関与に留まります。
この情熱と冷静のバランスや両立のとれた者こそが、僕にとっての理想の上司なのです。
理想の上司だから、彼らのようにはならない
彼らの特徴して、上司でありながら対等でいさせてくれる側面を持っています。
立場が同じということでありません。
上司部下という関係であっても、人それぞれに違った強みがあります。彼らは総合力では上司>部下であったとしても、強みにおいては部下>上司でなる、ということを理解しています。
彼らは僕の強みを探すことに努め、強みを使う機会を積極的に与え、強みの分野では頼ってさえくれます。
彼らは彼らの真似をしろとは言わず、そうやって僕に僕の強みを活かす道を探させてくれます。
だから、僕は彼らとはタイプも仕事の仕方もキャリアも違うことばかりで、真似をしようと思いませんでしたし、今でも真似る気はありません。
彼らにはならない。彼らを尊敬するからこそ、真似をせず後を追わず、自分自身が発揮できる価値で彼らを助ける道を行かなければならないのです。
理想の上司とは、自分の価値観を映す鏡
理想の上司とは、自分と価値観を同じくする者や、自分が大切にすることを持っている者のことです。
万人にとっての理想の上司などいません。
人と人との出会いは偶然で気まぐれなので、必ずしも全ての人が理想の上司に会えるわけではありませんが、待っていたら永遠にその時は来ません。
まずは自分にとって大事なことは何かというのを、自分の中で言語化し体現しなければなりません。
もし僕が「高い目標意識を持ちつつも勢いだけでは生きない」という雰囲気を出していなかったら、彼らは僕を試すどころか気にも留めなかったはずです。
理想の上司に出会うということは、自分が誰かの理想の部下になることでもあります。自分自身がどういう人間でありたいかということを意識しなければ、永遠にいい出会いは訪れない。
理想の上司になる
そしてそろそろ僕も上司になる番だと思います。自分がいい上司になるためには、自分という人間が何を大事にするかを言語化して、そして価値観を同じくする部下を見逃してはいけないということです。
この点において、やはり彼らを理想の上司とする僕の考えは、自分自身のやり方を部下に押し付けてはいけないが、部下のタイプに合わせにいってもいけないという、絶妙なバランスを常に意識しなければいけないのである。
「さらば、全てのエヴァンゲリオン。」というメッセージ
シン・エヴァンゲリオン劇場版:||、見ました。
僕は考察厨ではないし、内容について熱く語りたいという願望もないので、この作品のメッセージとして感じたことをただ綴ります。
考察もしないし内容を語らないけど、ネタバレがないとは言えないので、ネタバレされたくない人は映画を見てからにしてほしい。
さらば、全てのエヴァンゲリオン。
「さらば、全てのエヴァンゲリオン。」というのは、本作のキャッチコピーである。
劇中では、シンジ君が「さようなら、全てのエヴァンゲリオン」という言葉を発している。
そして、これがシンプルにそのまま監督からのメッセージなんだろうなと感じた。
劇中では、「さようなら、全てのエヴァンゲリオン」=エヴァンゲリオンという存在のいない世界へいくよ、という意味での別れの言葉だった。
メタの世界では、「さようなら、全てのエヴァンゲリオン」=エヴァンゲリオンという作品に対する別れの言葉なんだろう。
つまり、「エヴァこれで完全に終わるよ」、「君たち(視聴者)もいつまでもエヴァに囚われるの終わりね」というメッセージなんだと思う。
さらば、「全ての」エヴァンゲリオン。
キャッチコピーに「全ての」という言葉が入っていることも、僕ら視聴者がエヴァという作品から離れるための意味なんだと思う。
もし新劇場版だけが綺麗に完結しただけだったら、アニメや旧劇で囚われた人は囚われたままになる可能性もある。
だけどそうじゃなくて、とにかくエヴァって作品、シリーズをひっくるめて「全ての」エヴァを過去のものにしなさいよと。
それを感じさせるのが、劇中で明らかにテレビシリーズや旧劇と思われるシーンが出てきて、そしてそこに新たな言葉が添えられたことだと。
キャラクターにも僕ら視聴者にもずっと与えられていたモヤモヤしていたものを、解消していった。
もちろん時間がないから全部が全部は解消できないんだけど、でも「これでキャラクター達はかなり救われたでしょ?だからもういいっこなしね」っていうメッセージなんだと思う。
お友達のアスカ好きの人も、惣流アスカラングレーもオタクも救われたって感想を言ってたのを見た時に、改めてメッセージの意図を感じた。
大人にならなきゃね
そう考えると、シン劇というのは、非モテオタクへの熱いメッセージも含んでいて。
シンジ君は大人になったよ、君たちも早く大人になりなさいよと。
妻を持ち、子をなし、NEON GENESIS新しい世代につないでいきなさいよって。
そんなメッセージを感じたよ。
それを象徴するかのように、次世代を担う、Q以前のメインメンバーの子供たちもたくさん出てきたし。
正直シン劇を見た時。
僕は泣くでもなく、考察にわくわくするでもなく。
ただただ綺麗な終わりだなって感じた。
エヴァっていう作品においてこんなに綺麗に終わることなんて、全く想像できなかったから。
拍子抜けしてしまったといってもいいくらいだった。
でもそう感じられたのは、監督からのメッセージを受け取れたからだと思っている。
子供心を忘れないということと、大人になるということは、実は相反する矛盾することではない。
自分の責任すら自分で負えない人間が子供であり、他人の責任すら負える者が大人なんだということだ。
そんなことを、僕はゲンドウやミサトさんの背中に思った。
さようなら、エヴァンゲリオン
僕らがこれからすべきことは、考察でも感動でもなく、大人になることだと思った。
だから僕は大人を目指すよ。
エヴァンゲリオンという作品を胸の内にしまって。
エヴァンゲリオンのない世界を進んでいく。
客観視は大事だけど相対視も大事だよねということに気づいた
こう見えて真面目なので、何かをする時に勉強したりするんですよ。
とりあえずやってみるけど、それと並行して結構調べたりします。
ホントに何も考えずに自分の直感だけで何かをするということはほとんどないです。
そんな中で、教科書的なものとか、教えみたいなものを見る時には、自分を客観的に見るだけじゃなく相対的に見ることも非常に大事だということを最近学びましたので、それについて話していきます。
教科書的なもの、教えみたいなものとは何か
まず最初に教科書的なもの、教えてみたいなものとは何かについて説明します。
敢えて「的なもの」という言葉をつけていますが、今の世の中には、教科書と名乗ってはないけれど教材的な役割を果たしているものがたくさんあります。
わかりやすくて最近の流行りだと、筋トレ動画とかが該当します。こういう筋トレをしたらこういう筋肉がつきますよというあれです。
マインドとか生き方について解説してる動画も該当しますね。こういうことすると幸せになりますよみたいな。
つまり何も本だけじゃなくて、YouTubeだろうと、ブログだろうと、知識やアドバイスを伝えるものも、教科書的なもの、教えみたいなものに当てはまります。
客観視の重要性
客観視の重要性は結構みんな認識あると思うんですよね。
客観視ができないと、自己評価と他己評価の差が大きくなりすぎて、本来すべきことをせずに、すべきでないことをしてしまうということが起こります。
また、別に自分をことを言われてるわけでもないのに、勝手に感情的になって文句をまき散らす人たちも主観が強すぎますね。メディアに踊らされていちいちクレームつけてる人たちがそれです。
だから一歩引いて、他人のことのように自分を見たり、数字や事実で自己を認識するのが大事だということです。
相対視の重要性
では相対視が何かというと、世の中とか平均値と比べて自分がどういうポジションにいるのかを見るということです。
ただ客観的に見るだけでなく、自分が比べるべき対象の中で、どういうポジションに位置しているかを踏まえて判断するのが重要です。
例えば、今の世の中だと「痩せましょう」というアドバイスはどこに行っても見ると思いますが、「太りましょう」というアドバイスを見ることはまずないと思います。
でもそれは世の中には肥満気味の人が多いからそういうアドバイスばかりになるわけで、痩せる必要がない人も中にはいます。
実際に、僕はずっと有酸素運動系のスポーツをバリバリやってきたので、僕も仲間も体脂肪率は10%代前半が普通で、20%を超えたら完全にデブという感覚で生きてきてきました。
ただ本来体脂肪率20%は世の中全体の男性で見た時には標準です。
だからすでに体脂肪率10%代前半の人間は痩せる必要はないということになります。
世の中にはやばいやつがたくさんいて、たいていの教科書はそういう人に向けたものになっているから、実践するとむしろ失敗する
前述の体脂肪率の話は数字なので客観視しやすくわかりやすい例でしたが、同じことは他のあらゆること、心理学とか考え方とかコミュニケーションの仕方とかにも当てはまります。
そして数字で表されないものほど客観視が難しく、客観視が苦手な人ほど、やばい人が多いのが実態です。
そう理解すると、世の中の考え方とかコミュニケーションの教科書的なものや教えというのは、ほとんどが極端にやばい人向けになっていることに気づきます。
やばい人向けの方がインパクトがあるし、キャッチーだし、効果があるのがわかりやすいんですよね。だからやばい人向けのものばかりになります。
結果、自分がやばい人でない場合、教えをそのまま守ってしまうと、かえって失敗してしまう可能性があります。
例えば会話術だと、傾聴力だとか共感力だとかがよく言われてますけど、普通の人がやったらやりすぎてしまって、かえって消極的だと判断されてしまうので、やってはだめなんです。
世の中には、マジで横柄で、他人の言うことなんか絶対に聞かず、自分を王様だと思ってるような人がいます。僕の知ってる人にもそういう人はいます。傾聴力だとか共感力だとかは、本来このようなやばい人へのアドバイスです。
普通の人がこれを信じてマネすると、受けに入ってしまって相手が無理しないといけなくなるので、マイナスになります。
自分が想定されている対象者と比較してどのポジションにいるのか
以上のように、教科書的なものとか教えみたいなものを言ってる人が、どういう人を対象と考えていて、その対象と比較して自分はどのポジションにいるのか、それを把握した上で教えを捉えるのが死ぬほど大事です。
一人一人に適切なアドバイスをするのは、相手をことを深く理解していないとできないため、つい一般論のアドバイスをしてしまう人が実際には多いです。
なので、誰かがしているアドバイスは、一般論なのか、それとも自分に最適だと思ってしているのかを見極める必要があります。
そういう時に、世の中の平均と自分がどれだけ一致しているのか、どれだけずれているのかを理解しておけば、一般論なのか自分へ向けたものかを理解できるようになります。
このように考えていくと、自分の場合は、よくYouTubeとかに上がっている一般論の教えみたいなものはほとんどが当てはまらないので、マネしたらダメなんだということに、最近気づきました。
頭がいいを言語化する
最近頭がいいなと思う人
頭がいい要素
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情報をインプットする力
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情報を解釈する力
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情報をアウトプットする力
1.情報をインプットする力
2.情報を解釈する力
3.情報をアウトプットする力
頭のよさと学力には相関性はある
考えすぎていい
頭がいい人は回転速度が速いだけ
自分の意見を持ってほしい
転職してから4年が経ちました
失ったものと得たもの
やっと堂々と間違いではなかったと言えるようになれた
己を変えるのは機会と経験
たくさんの人たちへの感謝を
これからもがんばります
これから先どう尖っていくかを考えている。答えはまだない。
皆さんこんばんは。
今日は尖り方についてしゃべっていきたいと思います。
尖っている=ユニーク
尖ると言う言葉には色々な意味がありますが、今日は個性的であることという意味で扱っていきます。
結論としては、多様化が進んでいる今日においては、非常に具体的でピンポイント個性や長所のようなものを持っておくと良い。もはや個性と言うレベルではなくて、尖っていると言えるくらいユニークなレベルであることが望ましい、ということです。
こんな時に尖りたくなった
今回尖るということについて考えた背景が2つあります。1つはYouTubeと言う世界を見ていて気づいたことがあったから、もう一つは、人生の中でこれからのキャリアについて考える機会が来たからです。
YouTubeに見た尖ることの大事さ
YouTube見たことがない人はほとんどいないと思います。僕もYouTubeは日々見ています。
最近あるカテゴリーの動画がたくさんトップページに表示されるようになりました。それは心理解説のようなカテゴリなので、誰でもやろうと思えばできてしまいます。そのようなカテゴリーだけあって、同じような内容をいろんな人が投稿しているのに気づきました。
広すぎるカテゴリはユニークを維持できない
最初はこの中の1人だけが投稿をしていて、それだけでその人はカテゴリーの中でユニークな存在だったんだと思うんですが、後追いの人がたくさん入ってくることによって、だんだんとユニークさがなくなっていってしまいます。しかし後追いの参入を防ぐ事は非常に難しいので、このカテゴリの中でさらにユニークさを持っていかないと、誰の動画でも同じだなって思われてしまうなと思いました。
万人受けを狙わないから生まれるユニークさ
逆に、別のカテゴリーで、既にユニークさを持っている人の動画を知っています。最近友人に教えてもらった絵の添削動画なのですが、上手いとか下手といった技術的な添削ではなく、いかにしてお金になるのかと言うビジネスとしての観点で添削をしている動画です。イラストと言うようなカテゴリーにおいてビジネスの観点と言うのはなかなかユニークな観点だなと思います。万人に心地良い内容ではなく、耳が痛くなる人もいるけれどもだからこそ非常に刺さる人もいる動画になっています。カテゴリの中でさらにターゲットを具体化している、尖っている良い例だなと思いました。
これからの自分のキャリア作り
僕は数年前にキャリアについて見直すタイミングを迎え、結果転職をして経験を積んできました。
今また、当時からあった環境の中で経験できることは一通り経験をしたなと言うタイミングを迎えたので、これから先経験することや環境とを新たに構築していく必要があります。
僕の分野と言うのは、超広く言うと会計の分野なのですが、その中にも、たくさんの分野があります。その分野の全てをマスターする事は、およそ人間にできることではありません。
なんでも屋はいらなくなる
一昔前のキャリアの考え方であれば、少しずつ広さと深さを増やしていって、丸い形で広げていくと言うのが一般的だったと思います。
しかし、情報得るのが非常に簡単になった現代においては、ただ広くて浅い知識や経験と言うのは、なかなか価値を発揮しにくくなってきています。
ラノベのタイトルくらい具体的に尖った方がいい
狭くてもいいので、このことに関してはめちゃくちゃ得意ですというというように、差別化が明確な方が価値を発揮しやすくなってきています。
分野の定義自体を自分で作ってしまえるくらい、尖っていくことができればいいなと、考えています。
まとめ
YouTubeの例は、興味の細分化です。
提供する側が無限のレベルで増えてしまったので、受け手が自分の好きなものだけを消費していくようになって、万人受けするものが、選ばれにくくなってしまいました。
合わない人もいるけれど、合う人にはめちゃくちゃ刺さる、そういう尖り方というのが大事だなと思います。
仕事でのキャリア例は、代替可能性です。
誰でもできる誰がやっても一緒と言うのは、パターン化も代替することも簡単なので、その人であると言う価値がなくなっていきます。
この人だからこそできる、この人だからこそやってもらいたい、という尖ったステップアップを目指すのが、これからのキャリアの作り方なんじゃないかなと思います。
掛け合わせ組み合わせで尖る
ただし、1つのものだけで尖ろうと思うと、あまりに幅のない人間になってしまうし、求められる深さというのが深くなりできるので、いくつかのものを組み合わせていくことによって、1つの尖ったものを作っていくというのが、当面10年位は最適解なのかなと思っています
結論:尖ろう
なので最近は、プライベートでもビジネスでもどうやって自分を尖らせていこうかなあと考えています。
とかあったほうがいいのか丸くなったほうがいいのかと悩んでいる方がいるのであれば、間違いなく尖ったほうがいいよと添えて、締めくくります。
コロナが飛び回る世界の中で僕らは大切なものを再認識する
ライトノベルみたいなタイトルになりました。
連日のリモートワークによる運動不足を解消するため、河川敷のサイクリングロードで自転車を走らせました。
そこで僕の目に映ったのは、たくさんの人達でした。このサイクリングロードは何度も走っていますが、こんなに人がたくさんいるのは見たことがありません。
自転車を走らせるのがこんなにストレスフルだったことは一度もないですし、すれ違うために速度を落とす回数が、過去とは比較になりません。
緊急事態宣言からまだ1週間経たない初の週末、行き場をなくしかつ体を動かすことに飢えた人達がこんなにもいるのかと、驚きがありました。
そして、多かったのはジョギングやランニングの人だけではありません。親子連れの数も明らかに多かったです。
こんな風に親子が一緒に遊ぶ、本来は当たり前の光景が、コロナと緊急事態宣言によって戻ってきたというのは、皮肉としか言えません。
今まさに、大半の人達の生活はスローライフになりながら、物理的な他人との交流を制限されてしまった。こういう環境の中で、僕らは改めて人と人とのつながりの大切さを再認識するんじゃないかと思うんです。
昨日までの生活ができなくなって、怒ったり不安になったりする人もたくさんいるけれど、そもそも昨日までの生活は、本当にベストで素晴らしいものだったのか、改めて問い直すタイミングなんじゃないかなと思います。
寝てないことが偉いとか、何時間も残業し続けることが偉いとか、そんな風習が気づけば世間を覆ってしまったけれど、それは子供と遊ぶことよりも大切なんだろうか。
愚痴を言いながら飲むお酒は、好きな人達と笑いながら飲むお酒よりも大切なんだろうか。
そんなに劇的に変わるなんてことはないから、きっと何ヶ月か先には、昨日までと同じような日常に戻るだろう。
でも何ヶ月もこの日常を経験した人達は、少しずつ変わっていくと思う。
だからね、こんな時だからこそ、他人を思いやる気持ちとか、他人への感謝とか、楽しく生きていくためのことに集中していったら、いい形でこれからの数カ月を乗り越えられるんじゃないかと思うんです。